ものの数え方・助数詞
《 コラム - ちょっと知識 》
握りずし『一貫いっかん』の不思議
1. 「握りずし」を考案したのは誰?

  • 文中に、「今から○○年前」というような表現が出てきます。これは毎年更新されますが、その出来事がその年の「何月」であったのかの考慮はなされていません。
  • 「すし」は、『鮓』『鮨』『寿司』などの漢字を使うことがありますが、ここでは、引用した文献による表記以外は、基本的に「すし」としています。
  • 引用した文献で、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに変えているものがあります。
  • 文中、敬称を省略しています。
1. 「握りずし」を考案したのは誰?
  • 「握りずし」を誰が考案したかについては、伝説的ともいえるような話も含めて諸説があるようです。ここでは、4つの説を紹介します。

    • ① 明暦3年・1657年()の「明暦の大火(振袖火事)」の際に、炊き出しのおむすびに色々な具をのせて配ったのが「握りずし」のヒントになったという説。
       これは、例えばそういうことがあったとしても、「酢飯」に「種」をのせる「握りずし」の形が確立するのはこれから150年後頃のことですので、伝説的な話の一つとされているようです。
       ただ、この「明暦の大火」の後に江戸に飲食店が現れ始めたということですので、この、江戸市街の大半を焼き尽くし、江戸城の天守閣をも焼き、6万8000余人とも言われる死者を出した大火が、江戸食文化の一つの転換点となったことは間違いないかも知れません。
    • ② 延宝(1673年〜1681年)の頃、 松本善甫まつもとよしいち (生年未詳~元禄8年・1695年)という医者が、酢と飯を合わせた「早ずし」を作ったという説。
        これは、 岡本保孝おかもとやすたか (寛政9年・1797年~明治11年・1878年)が、明治8年・1874年頃に書いた随筆『 難波江なにわえ 』の中で、『すでに亡くなっているが、友人の狩谷棭斎かりやえきさい (安永4年・1775年~天保6年・1835年)から聞いた』として載っているもので、それまでの何日もかかるものに変わって、手で握る「 早鮓はやずし」を編み出したとするものです。
       しかしこれも、それを語ったとされる狩谷が生まれる100年近く前の話ということになり、また、①と同じように、現在の「握りずし」と言える形が確立するのは、延宝時代からは140年後頃のことですので、松本善甫が「握りずしを考案した」と言い切ることは出来ないのではないかと思われます。
       ただ、食べるまでに時間がかかる当時のすしを、少しでも早く食べたいと色々と工夫をし、後に確立する握りずしのルーツとなっていたことはあるのかも知れません。
    • 『難波江』「巻之四 鮓」 岡本保孝

       今江戸ニアル スシ ハ、延宝ノ頃、御医師ノ松本善甫ト云フモノヽ新製也。
      〈割註 略〉
       サレバ世ニ松本ズシト云フ。彦根ノ鮒ノ鮓、尾州ノ鮎ノ鮓ナドハ、魚ト飯トヲマゼテ五六日モ経テ食フ也。吉野近辺ニテ粟ノ飯ニテ造ル。二三ケ月モカコハルヽナリ。コレ等ノ鮓ハ、右ヨリ左ニハ出来兼ル故ニ、商フ者ニアツラフルニ、今日ヨリ幾日経テ取リニ来給ヘト云フニヨリ。コレヲオヂヤレズシト云フ。松本鮓ハ直ニ出来ル故ニ、マチヤレズシト云ヒ、又早鮓ハヤズシトモ云フナリ。元来スシハ、上件ノ如ク飯ト魚トヲマゼテ置クニ、日数経レバオノヅカラスミノ出ルモノニテ、鮓ヲ加ヘテ製スルモノニアラズ。鮨ノ字ノ方ヨロシ。字書ヲ観テシルベシ。
       コノ一条ハ、亡友狩谷棭斎ノ説話ナリ。

      『難波江』(明治8年頃・1874年頃)
      吉川弘文館「日本随筆大成第二期21」
      (昭和49年・1974年) P334
      岡本保孝(寛政9年・1797年~明治11年・1878年)
      ●文中に出てくる人物の生没年
       松本善甫(生年未詳~元禄8年・1695年)
       刈谷棭斎(安永4年・1775年~天保6年・1835年)
    • ③ 江戸に名のあるすし屋のうち、「松の鮓(屋号は 砂子鮓いさごずし )」の堺屋松五郎(生没年未詳)が文化年間(1804年〜1818年)の初め頃考案したという説。
      [松の鮓の開店を文政13年・1830年とする向きがあるが、これは、この頃に深川安宅町から浅草平右衛門町に移転し、開店は文化の初年・1804年()頃ではないかと思われる。少なくとも文政3年・1820年の川柳には「松の鮓」が登場する]
    •  これについては、文政13年・1830年に 喜多村信節きたむら のぶよ (天明4年・1784年〜安政3年・1856年)が書いた随筆、『 嬉遊笑覧きゆうしょうらん』に、『文化のはじめ頃、深川六軒ぼりに松がすし出きて、世上すしの風一変し』との記述があり、これが握りずしの初めと推測されるというものです。
      『嬉遊笑覧』「巻十上 飲食」 喜多村信節

       松がすし てんぷら あげもの

       文化のはじめ頃深川六軒ぼりに松がすし出きて世上すしの風一変しそれより少し前に日本橋きわのやたいみせにて吉兵衛と云うものよきてんぷら志出してより他所にもよきあげものあまたになり是また一変なり
      嬉遊笑覧』(文政13年・1830年)
      近藤活版所(明治36年・1903年) P484
      喜多村信節(天明4年・1784年〜安政3年・1856年)
    •  しかし、この『一変』を、握りずしを売り出したとする解釈がある一方、値段の高いすしを売り出し、すしが高級料理になったとする解釈もあるようです。
      「高級料理」と解釈する根拠の一つとしては、文政4年・1821年から天保12年・1841年に 松浦静山まつらせいざん (宝暦10年・1760年〜天保12年・1841年)が書いた随筆、『 甲子夜話かっしやわ 』に出てくる「松の鮓」のくだりで、値段について触れているが「握りずし」であるとの記述がないことなどから、『一変』は、「握りずしを考案した」ということではないのではないかというものです。
      『甲子夜話』
       「巻之十八 二四 安宅の松鮓」 松浦静山


       近頃大川の東、安宅あたけに松鮓と呼ぶ新製あり。松とは うる 人の名なり。此佳味、一時最賞用す。この鮓の価殊に貴く、その量五寸の器二重に盛て、橢金三円に換うとぞ。これを制するもの、鮓成てこれを試食し、その味、意に かなわざれば、 すなわち 棄てて顧みずと云。この如く貴価の品、今に行わるゝも、亦世風を観るべし。
      松浦静山『甲子夜話』(文政4年・1821年〜天保12年・1841年)
      平凡社・東洋文庫
      中村幸彦・中野三敏校訂(昭和52年・1977年)P320
      松浦静山(宝暦10年・1760年〜天保12年・1841年)
    •  また、天保5年・1834年に 笠亭仙果りゅうていせんか (文化元年・1804年〜慶応4年・1868年)が書いた随筆、『よしなし言』にも、『握りずし』であるとの記述はなく、『江戸安宅の松が鮓の精製…十匁くらい買えば詰めて後、火打ちかけて』『鮓の中に壱朱銀などを入れて置きしなり』など、売り方や宣伝の仕方の特徴などが書かれているのみです。
      『よしなし言』 笠亭仙果

      江戸安宅の松が鮓の精製は
        〈中略〉
      もんめくらいも買えば、詰めて後、火打ちかけて出す。清火にて清むるここち也。また、たで生姜など別に小折に入れ、それを水引にてゆわえ、熨斗のしつけ札はりて重などにのせ遣わす事也。また、この家の海苔ずしは飯と魚と海苔と渦巻きに作る也。ほかのは海苔をころもに巻くのみ也。この松五郎は鮓を売り出しし始、所々の控所へ行き、わが手製の鮓也とて遣わし、もし麁品そひん 故歯にあたる事もやある、心つけ給えといいしとぞ。鮓の中に壱朱銀などを入れおきし也。これよりその 闊達かったつをののしりあいて一時に名を高うしたり。すべて功名を尊む人少しは山心やまごころなくては一生涯名はいでがたし、驥尾きび にでも何にでもつき、さて自らの職を精出すべし。一旦山にて高名になるとも後なくてはさめやすし。この所が肝要也。
      【編集注】
      ・ 十匁(もんめ)= 37.5グラム(一匁は、現在の五円硬貨一枚の重さ)
      ・ 火打ちかけて出す=厄落としのため、火打ち石を打って送り出す。
      麁品そひん=粗末な品。
      闊達かったつ=度量が広く小さいことにこだわらない。
      驥尾きび=尻馬に乗る。人の業績を見習う。

      笠亭仙果『よしなし言』(天保5年・1843年)
      笠亭仙果(文化元年・1804年〜慶応4年・1868年)
      出典:図説江戸時代食生活辞典 吉野曻雄
    •  また、次の④に出てくる、「与兵衛鮓」の華屋与兵衛の曾孫、小泉清三郎(明治17年・1884年〜昭和25年・1950年)の『家庭 鮓のつけかた』には、『松の鮓』までは「押し鮓」であったと記されています。
      家庭 鮓のつけかた』 小泉清三郎
       〈四〉 江戸の鮓


       文化時代になって、初めて名代の『松の鮓』が出来たのです。 
      〈中略〉

       以上述べました江戸の鮓と云うのは皆京阪から伝わりました押鮓ばかりで、当時迄は握鮓の影を八百八町に物色しても見当たらなかったのです。
      小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた』
      大蔵書店(明治43年・1910年)P158
      小泉清三郎(明治17年・1884年〜昭和25年・1950年)
    •  ただし、「押しずし」から始まったかも知れない『松の鮓』も、天保15年・1844年に描かれた錦絵には、「安宅の松の鮓」の文字とともに「握りずし」が描かれていますので、この頃には『松の鮓』を始め、江戸のすしが『握りずし』の時代に入っていたことに間違いはありません。
       『松の鮓』の人気の程は、天保7年・1836年に方外道人(木下梅庵)が書いた『江戸名物詩』に「他に並ぶものもなかった」と記され、また、進物用にも喜ばれたようです。
      錦絵に描かれた握りずし・縞揃女弁慶/歌川国芳/天保15年・1844年
      縞揃女弁慶しまぞろいおんなべんけい

      歌川国芳うたがわくによし
      天保15年・1844年刊

      すしの部分 = 拡大図
      (東京都立中央図書館特別文庫室蔵・無許可使用禁止)
      『江戸名物詩初編』 方外道人

         安宅松鮓 御舩蔵前
      本所一番安宅鮓 高名當時莫可并
      權家進物三重折 玉子如金魚水晶

      『本所一番安宅のすしは、名が高く当時他に並ぶものもなかった。当時の権勢のある家が進物に使うのは「松のずし」の三重の折り詰めで、玉子は金のようで、魚は水晶のようであった』
      『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』
      方外道人(木下梅庵) 天保7年・1836年
    • ④ 江戸に名のあるすし屋のうち、「与兵衛鮓」の 華屋与兵衛はなやよへい (寛政11年・1799年〜安政5年・1858年)が、文政年間(1818年〜1830年)に考案したという説。
      [与兵衛鮓の開店は、文政7年・1824年()とされる]
    •  華屋与兵衛については、与兵衛の曾孫、小泉清三郎が明治43年・1910年()に書いた、『家庭 鮓のつけかた』で、「旧記に」として、
      • ①『江戸に握鮓の起こったのは文政の初め』
      • ②『与兵衛鮓の初代が新法を案出』
      • ③『与兵衛以前に二三の者が失敗している。それらは市人の嗜好に適さなかったようで、二三の先進があっても、その真価を紹介した功があり、初代与兵衛鮓が始祖とも云うべき』
    •  などと記しており、このことから、華屋与兵衛が「握りずし」を創案し、完成させたとするものです。
      『家庭 鮓のつけかた』 小泉清三郎
       〈五〉握鮓の流行


       江戸に握鮓の起ったのは文政今をる九十年ぜんの初めで、今の與兵衛鮓の初代がこの新法を案出したと旧記にあります。もっとも與兵衛以前に此の法を企てた者も二三はありましたようですが、皆失敗に帰して市人しじん嗜好しこうに適さなかったようです。
       して見れば先ず此の與兵衛が握鮓の始祖しそとも云うべきで、たとえ二三の先進があっても其真価を紹介したという功は、あたかも宗鑑以降の俳諧が元禄の芭蕉に依って初めて文学的色彩を帯びたのと同じような訳です。
      小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた』
      大蔵書店(明治43年・1910年)P158
      小泉清三郎(明治17年・1884年〜昭和25年・1950年)
    •  また、『家庭 鮓のつけかた』では、華屋与兵衛がなぜ「握りずし」を工夫するようになったかについて、 文久子ぶんきゅうし が書いた『またぬ青葉』という文献の「与兵衛伝抄録」として、『握りずしを始めたのは、昔のすしは飯が多く下品で、作るのに三、四時間もかかり、三日位置くこともできて、おいしい魚も油を絞り、まずくなってしまうのでこれを改めようと思った』と記されています。
      『家庭 鮓のつけかた』 小泉清三郎
       〈五〉握鮓の流行


       〈中略〉
       さて與兵衞がどうして握鮓を工夫したかと云うに、文久子の『またぬ青葉』(明治廿年頃写本)に、
      『握鮓を初めしは、昔の鮓は飯多くして下品なれば之を改めんと斯くて之に至りぬ。 又当時の鮓は、魚の油を絞りて握りたる飯に付け、箱の中に列らべ笹にて一つ宛しきり其の上に蓋をなし、石を置き三四時間ほど経ちて蓋を取り、鮓べらと云う竹篦にて一つ宛へがし取る也。 故に三日位置ても変ぜず、客来れば只今直ぐに出来ますなどと云う。 翁は此の製方の悠長なるを厭い、又押鮓にては折角美味を持てる魚も油を絞りまずくする事本意に非ずと初めて握早漬を工夫せし也(與兵衞伝抄録)』
      と出て居ります。
      小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた』
      大蔵書店(明治43年・1910年)P159
      小泉清三郎(明治17年・1884年〜昭和25年・1950年)
      文久子:書肆浅倉屋主人
    • 「華屋与兵衛説」については、新聞記者であり随筆家でもあった、 大庭柯公おおば かこう (明治5年・1872年〜大正13年?・1924年?)は、大正七年・1918年()に記した随筆、『其日の話』で、「文政の初めごろ、今の与兵衛鮨の先祖が売り出した」と断定しています。ただしこれは、先の『家庭 鮓のつけかた』よりも後なので、『家庭 鮓のつけかた』を読んだり、それらを元にした話を聞いたりしての記述とも考えられます。
      其日の話』 - 「食通」 大庭柯公

       江戸式の握り鮨は、文政の初め頃から現れたもので、今の与兵衛鮨の先祖が売り出したものである。握り鮨の特長は、客の顔を見て直ぐ出すと云うのに在って、これが江戸ッ児の気前に投じたらしい。元は三日三晩も酢に漬けて置いた鮓が、一夜鮓とまで発達し、更に客の顔を見て直ぐに出来ると云う握り鮓にまで進化したことは、時代人心の変化に伴うた食味の進化とでも云おうか。与兵衛鮨を詠んだ狂歌には『鯛比良目いつも風味は与兵衛ずし、買手は見世にまって折詰』『こみあいて待ちくたびれる与兵衛ずし、客も諸とも手を握りけり』その繁昌の様が窺われる。

      大庭柯公『其日の話』 - 「食通」
      春陽堂(大正7年・1918年)P204
      大庭柯公(明治5年・1872年〜大正13年・1924年?)
  •  このように、「握りずし」を誰が考案したかについては諸説がありますが、昭和50年・1975年()に出版された『すし技術教科書 江戸前ずし編』(全国すし商環境衛生同業組合連合会監修)では、「吉野鮨本店」三代目 吉野曻雄よしのますお (明治39年・1906年〜平成3年・1991年)が前出の「華屋与兵衛」を取り上げ、次のように記しています。
      『諸説があり、いずれを真説ときめかねるが、文政年間、両国の与兵衛ずしの初代華屋与兵衛が考案したという説が、いちばん人口じんこう膾炙かいしゃ しているようである。しかし、与兵衛自伝でもいっているように、与兵衛以前にも何人かの発案者がいたようだから、いうなれば与兵衛はその大成者であろう』
      『すし技術教科書 江戸前ずし編』 - にぎりずしの誕生 
      吉野曻雄・「吉野鮨本店」三代目 
      (明治39年・1906年〜平成3年・1991年)
  • 『与兵衛鮓』の、握りずしの賑わいは狂歌にも残されています。
      こみあいて待ちくたびれる与兵衛鮨客も諸とも手を握りけり
      鯛平目いつも風味は与兵衛鮨買手は見世にまって折詰
      安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」

  • ・文献などによる情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡ください

  •  次の項では、「握りずし」がいつ頃世の中に広まったのかを検証してみます。

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Last updated : 2024/06/28