- 文中に、「今から○○年前」というような表現が出てきます。これは毎年更新されますが、その出来事がその年の「何月」であったのかの考慮はなされていません。
- 「すし」は、『鮓』『鮨』『寿司』などの漢字を使うことがありますが、ここでは、引用した文献による表記以外は、基本的に「すし」としています。
- 引用した文献で、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに変えているものがあります。
- 文中、敬称を省略しています。
9. 「カン」と数える由来は?
- 握りずしを「一カン」と数えることがあるということは、前述の通り、昭和45年・1970年()に
篠田統 が書いた「すしの本 増補版」や、吉野曻雄 が昭和46年・1971年()に『近代食堂』に書いた記事、昭和50年・1975年()に発行された『すし技術教科書 江戸前ずし編』などに登場し、『戦前の職人が握りずし五個と、のり巻き二切れを「五カンのチャンチキ」と言った』との趣旨の記述があります。しかし、これらの書籍には『カン』が何であるのかの記述はありませんでした。 - なぜ「一カン」なのかについては、いくつもの説が巷間言われているようですが、現時点ではどの説にも確たる裏付けはないように思われます。
- ここでは、様々な説の中のいくつかを見てみます。
- ① 海苔巻きなどの、「巻物」一つを「
一巻 」と数えたからという説。- 確かに、「巻いた物」の数え方に「一巻」がありますが、海苔巻きを作る工程で言えば、「一巻 」は海苔の幅の長さがある訳で、これをいくつかに切って盛りつけるとなると、小さく切った一つを長い「一巻」と同じ呼び方をするのには無理がありそうな気もします。
- ② 重さの単位の「貫」から来たという説。
- すしをしっかり握ることを、『「一貫目」の氷を重しにしたくらいの力で』と表したのではないかという説です。しかし、重さの「一貫」は「3.75キログラム」ですので、4キログラム近い力で握ってはご飯が固まってしまうような気もしますが、しっかり握るという力の比喩として使われているのかも知れません。
- ③ 江戸時代の穴あき銭の
一緡 がすしの重さと同じで、誇張して「一貫」としたとるする説 。 - 江戸時代、一文銭1,000枚(実際には960枚)の単位が「一貫・一貫文」でした。
- 【参考】森鷗外「山椒大夫」:港に出張っていた大夫の奴頭は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
- 両替商などを中心に、穴あき銭を縄や麻紐などでまとめていて、「
百文差 」「三百文差」「一貫文差し」などにしていました。その縄を「緡縄・差縄 」といって、それを売る「銭緡売り・銭差売り」などという商売もありました。「守貞謾稿 巻之六(生業 下)」 喜田川守貞
銭緡売り 銭差売り、京阪は諸司代[所司代]邸・城代邸等の中間の内職。江戸は火消役邸中間の内職にこれを製して市民に売る。大略十緡を一把とし、十把を一束とす。一束価おおよそ百文を与う。京阪は一把以上を売る。一把六文ばかりを与う。けだし三都ともに大小戸に応じ、あるいは生業に依りて多少を強い売る。開店の家等特に強い売る。【編集注】「緡縄・差縄」は、「さし」「さしなわ」「ぜになわ」とも呼ばれた。「銭緡売り」は市中を売り歩き、時に強販=強い売りをすることがあり、これが転じて「押し売り」となったという。【編集注】「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は、天保8年・1837年から慶応3年・1867年まで、30年間にわたって書かれた江戸時代後期の風俗史。 - この「百文差」一本が「一
緡 ・一結 」と呼ばれていましたが、「一緡」の重さが江戸時代の握りずし一つ位の重さで、江戸っ子が誇張して「一貫ずし」と呼んだのではないかというものです。 - しかし、江戸時代の「握りずし」は大きかったと言われますが、「一緡」は最低でも 360グラム程度あり、現在の 350 mLの缶ジュースなどとほぼ同じ重さですから、握りずし一つがここまでの重さがあったとは考えにくいところです。
- ただし、東京(江戸)の両国にあった「与兵衛鮨」というすし屋の、江戸末期か明治の初め頃のすしを原寸で書いたとする図に、すし飯の部分だけでも12cm程あるアユの握りずしが載っていて、長さからすると「一緡」程度になり、このくらいの大きさのすしを誇張して「一貫」と呼んだとすれば、あながちあり得ない話ではないかも知れません。
- ④ 江戸時代の、穴あき銭の「一貫」の大きさから来たのではないかとする説 。
- 江戸時代の穴あき銭単位の、紐でまとめた『一貫』が、すしの大きさだったという説で、この説は一時期様々な所で取り上げられ、今でもネット上などで引用されたりしていますが、穴あき銭『一貫・一貫文』は、一文銭1,000枚(江戸時代、実際には960枚)で、長さにすれば1メートルを超えることになり、また重さも尺貫法の「一貫」を正確に当てはめれば「3.75kg」にもなり、この説は事実上否定されています。
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この一本が百文で一緡(さし)・一結(ゆい)と呼ばれる。一緡でも十センチを超え、一貫がすし一つの大きさということはあり得ない。
- ⑤ また、③や④に似た説で、穴あき銭50枚が一貫で、紐を通した一塊の大きさがすしと同じだったとするものも見られます。
- これは、穴あき銭50枚が一貫と呼ばれたことがあったかどうかがポイントですが、明治から大正時代にかけて俗に10銭を一貫と称したことがあったようですが、50文を一貫とした時代はないと思われ、もしこの説のような事があったとすれば、町民が日常持って歩くために50枚を「緡縄」で差してひとまとめにし、「これ一貫なり」と「誇張」したということになるでしょうか。
- 「誇張」をする『戯れ言』はいつの時代にでもあるもので、江戸時代の文献には「一銭を一貫」と言ったとするものがあります。
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「守貞謾稿 巻之二十六(春時)」 喜田川守貞
正月七日 今朝、三都 [編集注:三都とは、江戸、京都、大阪のこと] ともに七種 の粥 を食す。
七草の歌に曰く、芹 、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すゞな、すゞしろ、これぞ七種。以上を七草と云うなり。しかれども、今世、民間には一、二種を加うのみ。
三都ともに六日に困民・小農ら市中に出て、これを売る。京坂にては売詞に曰く、吉慶のなずな、祝いて一貫が買うておくれ、と云う。一貫は、一銭を云う戯言なり。江戸にては、なずな/\と呼び行くのみ。【編集注】「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は、天保8年・1837年から慶応3年・1867年まで、30年間にわたって書かれた江戸時代後期の風俗史。 - ⑥ 江戸時代の文献『守貞謾稿』に、箱ずしの切り方が『十二軒』と出てきて、この『軒』が『ケン』で、訛って『カン』になったのではないかという説も見られます。
- しかし、この説の『軒』にそもそも間違いがあるのではないかと思われます。
- 『守貞謾稿』には「十二に斬る」「凡て十二斬とす」と書いてあり、これは『じゅうにけん』ではなく、『じゅうにきれ』ではないかと思われます。従って、この説は、文献の読み違いによるものではないでしょうか。
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「守貞謾稿 後集 巻之一(食類)」 喜田川守貞
鮓 すしと訓ず。愚按ずるに、鮓は近来の俗字なり。
すしのこと、生業の条に詳らかに伝えるごとく、《中略》筥 鮓と云うは方四寸ばかりの筥に《中略》鶏卵やき・鯛の刺身・蚫 の薄片を置きて縦横十二に斬る。
【編集注】このくだりには図が添えられており次のような説明がある。『横四つ、竪三つ、すべて十二斬とす』
【編集注】「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は、天保8年・1837年から慶応3年・1867年まで、30年間にわたって書かれた江戸時代後期の風俗史。 - ⑦ 明治から大正時代にかけて、俗に10銭を一貫と称したことがあったことから、5銭程度のすし二つを「一貫」と呼んだのではないかとする説。
- これは、「8.」の「二つで一カン」という考え方ともつながってきますが、明治の頃の、一つ5銭くらいのすし二つで10銭、つまり「一貫」になることから、すし二つを「一貫」と呼んだのではないかという説で、「5.」で紹介した、「志賀直哉」が大正8年に書いた『小僧の神様』で、4銭ですしが食べられるかと思っていた小僧がすしに手を伸ばすと、すし屋の主人に「一つ六銭だよ」といわれてすしを戻す場面が出てきますが、この頃のすし一つがだいたい5銭程度であったことからして、二つで10銭、つまり「一貫」がすしの数として使われるようになったのではないかというものです。
- しかし、『すし技術教科書 江戸前ずし編』で、明治・大正・昭和とすし店を営んだ倉田華太郎(明治29年・1896年〜昭和51年・1976年)は、『大正初期に二個づけはなかった』としていることなどから、明治時代に二つを一つの括りとして数えたとするのは無理があるような気もします。
『すし技術教科書 江戸前ずし編』
明治・大正時代の江戸前ずし店
倉田華太郎
大正初期で屋台のすしが一個一銭五厘から二銭、内店で五銭だったでしょう。当時は今と違って二個づけはありません。ただし、一個の大きさがうんと大きく、一口では食べきれませんでした。
『すし技術教科書 江戸前ずし編』
第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修
倉田華太郎・「すし栄」三代目
(明治29年・1896年〜昭和51年・1976年)『大字典』
【貫】 (一)貨幣の単位、古は一千文、後世は九百六十文。又現世にては十銭の称。
『大字典』2,112頁
啓成社 大正6年・1917年 編纂:上田萬年 他
『日本国語大辞典 第二版』
【貫】 二(1)銭を数える単位。一文銭1000枚を一貫とする。江戸幕府は、寛永通宝(一文銭)を鋳造するようになってから、銭と金の比価を四貫文対一両と公定した。明治維新以降、明治四年(1871)に銭貨一文は新貨一厘通用に定められ、10文が一銭、一貫文は10銭相当のところから、俗に10銭のことを一貫と呼んだこともある。この俗称は大正時代にまで、卑俗語として一部に残った。
『日本国語大辞典 第二版 第三巻』1208頁
小学館 平成12年・2000年
- ⑧ 「貫」という漢字の成り立ちから来たという説。
- 「貫」という漢字は『形声文字』で、貨幣という「意味」を表す『貝』に、貫くという意味を持ち「音」を表す『カン』を加えて、紐で貫いた銭の意を示しているということです。
この、「貝」を貫いた「カン」を語源とするもので、「貝」が人気のすし種であることから、貝を並べて貫いた「貫」という漢字を、すし二つに見立てて「一貫」としたのではないかというものです。しかし、「貫」という漢字の、あまり一般的とはいえない成り立ちをすしに結びつけるのは、ちょっと無理があるような気がしないでもありません。
- ① 海苔巻きなどの、「巻物」一つを「
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■ 『貫』の字源『大字典』2,112頁
啓成社 大正6年・1917年 編纂:上田萬年 他
会意形声。もと毋とかく、銭貝をつらぬき持つもの、銭サシ。毋は其形を象 る。後世は之に更に貝を加えて其義を示す。転じてツラヌク・通す・貫キシモノ・スジ・ミチ等の義に用う。編注:「毋」は、「
毋 れ」という字(音読みで「ブ」「ム」)で、「母 」という字とは違います。 - このように、「カン」の由来については、現時点では『諸説がある』としか言いようがないのが現実です。
- では、近年使われることのある「貫」の字は、どこから来たのでしょうか。次の項では「貫」の由来について見てみます。
・文献などによる情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡ください。