- 文中に、「今から○○年前」というような表現が出てきます。これは毎年更新されますが、その出来事がその年の「何月」であったのかの考慮はなされていません。
- 「すし」は、『鮓』『鮨』『寿司』などの漢字を使うことがありますが、ここでは、引用した文献による表記以外は、基本的に「すし」としています。
- 引用した文献で、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに変えているものがあります。
- 文中、敬称を省略しています。
3. 江戸後期の俳句・川柳・狂歌などに登場する「すし」
- この項では、江戸時代後期の俳句、川柳、狂歌、狂詩などに詠まれた「すし」を見てみます。
- 天明3年・1784年()に68歳で没した与謝蕪村と、文政10年・1828年()に64歳で没した小林一茶の句には「握りずし」は見当たりません。
- すでに「握りずし」が広まっていたと思われる文政の頃の一茶にとって、「握りずし」は題材たり得なかったのか、その理由を知る由もありませんが、一茶が亡くなった文政10年・1828年()の次の年には、『妖術という身で握る鮓の飯』などという川柳が詠まれています。
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江戸時代の年号 1615~1624 元和 1624~1644 寛永 1644~1648 正保 1648~1652 慶安 1652~1655 承応 1655~1658 明暦 1658~1661 万治 1661~1673 寛文 1673~1681 延宝 1681~1684 天和 1684~1688 貞享 1688~1704 元禄 1704~1711 宝永 1711~1716 正徳 1716~1736 享保 1736~1741 元文 1741~1744 寛保 1744~1748 延享 1748~1751 寛延 1751~1764 宝暦 1764~1772 明和 1772~1781 安永 1781~1789
1716 蕪村没天明 1789~1801 寛政 1801~1804 享和 1804~1818 文化 1818~1830
1828 一茶没文政 1830~1844 天保 1844~1848 弘化 1848~1854 嘉永 1854~1860 安政 1860~1861 万延 1861~1864 文久 1864~1865 元治 1865~1868 慶応 1868~1912 明治 与謝蕪村 享保元年・1716年〜天明3年・1784年
小林一茶 宝暦13年・1763年〜文政10年・1828年 -
与謝蕪村
享保元年・1716年〜天明3年・1784年
『蕪翁句集 巻之上 几菫著』
蓼の葉を此君と申せ雀鮓なれ過た鮓をあるじの遺恨哉鮓桶をこれへと樹下に床几哉鮓つけて誰待つとしもなき身哉鮒すしや彦根が城に雲かゝる
鮓おしてしばし淋しきこゝろかな鮓を壓す我レ酒醸す隣あり鮓をおす石上に詩を題すべくすし桶を洗へば淺き遊魚かな眞しらげのよね一升や鮓のめし卓上の鮓に目寒し觀魚亭鮓の石に五更の鐘のひゞきかな寂寛と晝間を鮓のなれ加減夢さめてあはやとひらく一夜鮓木の下に鮓の口切るあるじ哉小林一茶
宝暦13年・1763年〜文政10年・1828年
青柳の二すじ三すじ一よ鮓 文化10年・1813年[一夜ずしは早ずしとも呼ばれた]逢坂の蕗の葉かりて一よ鮓 文化10年・1813年鮓見世や水打かける小笹山 文化10年・1813年みちのくのつゝじかざして一よ鮓 文化10年・1813年夕暮やせうぢん鮓も角田川 文化10年・1813年柴の戸や鮓の重石の米ふくべ 文政8年・1825年蛇の鮓もくひかねぬ也江戸女 文政8年・1825年鮓売たまけに踊るや京女 文政8年・1825年鮓に成る間を配る枕哉 文政8年・1825年[押しずしが出来るまで昼寝でもしていてもらおうということか]鮓になる間に歩く川辺哉 文政8年・1825年蓼の葉も紅葉しにけり一夜鮓 文政8年・1825年川柳、狂歌、狂詩など
松が鮓ときハ町から買いにやり 半下文政3年・1820年『誹風柳多留 七十二篇』三角ハむすび。太夫は松が鮓 樂水文政8年・1825年『誹風柳多留 八十八篇』松が鮓萬民是を賞翫す 木賀文政8年・1825年『誹風柳多留 八十二篇』そろばんずくならよしなんし松が鮓 芋洗文政10年・1827年『誹風柳多留 九十二篇』いゝ遊山花のほかにハ松が鮓 株木文政10年・1827年『誹風柳多留 九十三篇』妖術という身で握る鮓の飯 帆布
鮓のめし妖術という身でにぎり 帆布
[すしを握る様が、芝居などの忍術使いが両手で印を結ぶ様に似ているからか。あるいは、軽やかな身振りで握る様か]
文政12年・1829『誹風柳多留 百八篇』握られて出来て喰付鮓の飯 虎丸[握りずしが、押しずしと違ってすぐに出て来てすぐに食べられると詠んでいる]
天保2年・1831年『誹風柳多留 百十三篇』にぎにぎを先へ覚える鮨屋の子 サ山[すし屋の子は、すしを握る父親を見て何よりも先に「にぎにぎ」を覚えると詠んでいる]
天保6年・1835年『誹風柳多留 百三十九篇』與兵衞鮓 向両国元丁
流行鮓屋町々在 此頃新開两國東
路地奥名與兵衛 客来争坐二間中
『江戸の町々に、はやりのすし屋があるが、最近、両国東の路地奥に与兵衛鮓というのが出来て、二間 ほどの店だが客が席を争っている』
天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』
方外道人(木下梅庵)■ 天保七年・1836年
『江戸名物詩初編』
方外道人(木下梅庵)
「與兵衞鮓」について
安宅松鮓 御舩蔵前
本所一番安宅鮓 高名當時莫可并
權家進物三重折 玉子如金魚水晶
『本所一番安宅のすしは、名が高く当時他に並ぶものもなかった。当時の権勢のある家が進物に使うのは「松のずし」の三重の折り詰めで、玉子は金のようで、魚は水晶のようであった』
天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』
方外道人(木下梅庵)■ 天保七年・1836年
『江戸名物詩初編』
方外道人(木下梅庵)
「安宅松鮓」について
こみあいて待ちくたびれる与兵衛鮨客も諸とも手を握りけり
生成 安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」鯛平目いつも風味は与兵衛鮨買手は見世にまって折詰
菊成 安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」 - 次の項では、いつ頃から「カン」と数えるようになったのかを見てみます。ここで紹介した『守貞謾稿』に数え方は出てくるでしょうか。
・文献などによる情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡ください。