- 文中に、「今から○○年前」というような表現が出てきます。これは毎年更新されますが、その出来事がその年の「何月」であったのかの考慮はなされていません。
- 「すし」は、『鮓』『鮨』『寿司』などの漢字を使うことがありますが、ここでは、引用した文献による表記以外は、基本的に「すし」としています。
- 引用した文献で、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに変えているものがあります。
- 文中、敬称を省略しています。
4. 「一カン」と数えるようになったのはいつ頃?
- 握りずしを「いっかん」と数えることがあります。では、いつ頃から「カン」と数えるようになったのでしょうか? この項では、「カン」と数えるようになったのはいつ頃なのかを見てみます。
- 「すし」といえば「押しずし」であったものが、嘉永(1848年~1854年)から安政(1854年~1860年)頃の江戸では「握りずし」のみになったということが、江戸時代の風俗を知る百科事典とも言われる、
喜田川守貞 という人が書いた『守貞謾稿 』や、大阪生まれの歌舞伎作者、西沢一鳳 が書いた「皇都午睡 」などに出てくることは前項に記しました。 - では、「すし」の数え方ですが、この『守貞謾稿』
に数え方が出てくるかどうかを見てみますと、「一つ」と登場し、「カン」はありませんでした。
『毛ぬきずしと云うは、握りずしを一つづゝくま笹に巻きて押したり。価一[つ]六文ばかり。毛ぬきずしの他は貴価のもの多く、鮨一つ価四文より五、六十文に至る。』[喜田川守貞著「守貞謾稿 巻之六(生業下)」
- 宇佐美英機校訂「近世風俗志」・岩波文庫] P294 - 時代を文政から7、80年ほど下る、明治31年・1898年
に出版された、上方噺家の
曽呂利新左衛門 の『滑稽大和めぐり』では、「二切れ」「三切れ」という表現が使われています。文章を読むと、「握り鮨」という言葉も出て来ますが、「箱鮨か巻き鮨でもいいが」と続きますので、ここでは、幾切れかに切った押し鮨か巻き鮨を指す数え方と見ることが出来るのではないでしょうか。『滑稽大和めぐり』 曽呂利新左衛門
握鮓 でも、出来 にやア箱鮓 でも巻鮓 でも可 いが、チヨイと二切 か三切 程 持 ツて来てんか
『滑稽大和めぐり』(明治31年・1898年)
駸々堂「新百千鳥 ; 第3巻 第4集」 P11
二世曽呂利新左衛門(天保13年10月15日 - 大正12年・1923年7月2日) - さらに10年ほど下る、明治43年・1910年 に書かれた、「与兵衛鮓」の初代華屋与兵衛の曾孫、小泉清三郎が書いた『家庭 鮓のつけかた』では「一つ」「二つ」が使われています。
- また、昭和5年・1930年
に出版された、
永瀬牙之輔 著『すし通 』では、「一つ」「二つ」が使われています。『すし通』 「鮨は三つ四つ」 永瀬牙之輔
いくら手拭いをぶら下げた銭湯帰りの立ち食いでも、二つ三つでは恥ずかしくて出られないとよく人はいうが、それはまだ通になりきれていないからである。味より見栄えにとらわれていつ唐変木である。
鮨は最初の五つくらいは味がなくて、七つ八つくらい食べてはじめて味が出てくるなんて手合いは、もう論外である。
昔、両国の屋台鮨で、客が鮨を七つ八つ食べるともう主人が『帰った帰った、そんなに食われては鮨が泣く』と言って客を追い帰えしたので、皆がヘンクツ鮨と呼んだが、非常に繁昌したそうである。これは鮨屋が御客に鮨を旨く食べさせるために鮨を制限したからである。
だから鮨の立食いで三つ四つが恥ずかしいようでは、まだまだ通には前途遼遠で、それが平気を通り越して得意となるくらいにならなければ駄目である。
『すし通』(昭和5年・1930年)
東京書房社「日本の食文化大系/第十三巻」 P118
永瀬牙之輔(生没年未詳) - また、昭和35年・1960年
に出版された、宮尾しげを著『すし物語』では、「一つ」または「一個」が使われています。
『すし物語』 宮尾しげを
[九] すしの材料 -2- すし米
すし屋のツケ台の前に坐ったとき、タネを注文すると、かならず、にぎりは二つ揃えてだす、これは左右の湾曲と、上下のそりがあるので、一つだけだと腕のいいにぎり手でも、右と左へわずかばかり傾むくことになる、その傾むきを、二つにつけて防ごうという、調理士の手品で、一つしか食べたくない時は、一個と注文して、二個ならぶのを、こちらから防ぐことである。
[十八] 大きなすし
大正年代に、神田多町の近く将棋の駒に金の字を書いた、金寿司という店で大握りを作ったのが有名。今の約四倍、それも固く握ってあるので、六個もたべれば満腹。
『すし物語』(昭和35年・1960年)
井上書房 P85、P194
宮尾しげを(明治35年・1902年〜昭和57年・1982年) - また、昭和45年・1970年
に出版された『すし調理師入門』では、
「一つ」「一個」が使われています。
『すし調理師入門』 「握りずしの調整」
現在では、付け台に2ツ揃えて出すのが習慣となっているが、もちろんそうときまっているわけではない。戦前は1つ出すのが普通で、2ツになったのは主として戦後のことである。
〈中略〉
一人前として出すもっとも一般的な盛りつけ割合は、握り7個と巻きもの1本分、または握り5個と巻きもの2本分である。
『すし調理師入門』(昭和45年・1970年) P103,104
浅見安彦(昭和4年・1929年生まれ)
橋本常隆(明治33年・1900年生まれ) - 『カン』という数え方は、昭和45年・1970年
に
篠田統 が書いた『すしの本 増補版』に、「吉野鮨本店」三代目吉野曻雄 からの聞き書きとして登場します。ただし、吉野の言葉でも「カン」はこの一箇所で、他では「一つ」としています。『東京江戸橋「吉野鮨」主人吉野曻雄さんは、このごろは店を息子に任せて、野口元夫として、もっぱら役者業にせい出しているが、 〈中略〉 以下、江戸ずしについての同氏からの受け売りを少し並べておく(文責在篠田)。 〈中略〉
今のすしは飯が少なすぎる。だから口ン中が生臭くなってしまう。昔は「五貫のチャンチキ」といって、握り五つと巻二つ(チャンチキとは馬鹿囃 しの太鼓の撥 が二本だから)で十分腹がはるはずだった。』
『屋台で二つ三つつまみ、二、三丁歩いて「アアうまかった。満腹した」ではいけない。「もう一つ食いたいナ」と後もどりするくらいがいいのだ』『すしの本 増補版』(昭和45年・1970年)
(初版は昭和41年・1966年)
吉野曻雄からの聞き取り「東京ずし雑話」
篠田統(明治32年・1899年〜昭和53年・1978年)
吉野曻雄・「吉野鮨本店」三代目
(明治39年・1906年〜平成3年・1991年) - その翌年の昭和46年・1971年
に、
吉野曻雄 が『近代食堂』(3月号)に書いた記事にも、同じ内容の言葉が登場します。また、吉野が平成2年・1990年 に著した『鮓・鮨・すし すしの辞典』(「近代食堂」に、昭和45年・1970年から百回にわたって書いたものを再構成したもの)でも同じ内容のことを書いています。 - なお、ここでちょっと注目しておきたいのは、『すしの本』で、篠田が『貫』という漢字を使っているのに対して、吉野が「『貫』の字を当てるべきだろうか」と疑問を投げかけている点で、これは、「10.」の『「貫」という漢字の由来』の項でも触れたいと思います。
『ついでにお話ししておきたいのは当時の一人前盛りのすしの数のことである。(編集注:「当時」とは、文脈から大正中期から昭和初期のこと)
当時の一人前は、握り五個、海苔巻の三つ切り(横巻を三つに切ったもの)を二切れで、これを五カン(貫の字を当てるべきだろうか)のチャンチキ(祭りばやしの音にかけて太鼓の撥 が二本だから、そのバチの意であろう)といった。今日のすし屋でもこの五カンのチャンチキはよく使われている言葉だ。』『近代食堂』 昭和46年・1971年3月号 P178
『鮓・鮨・すし すしの辞典』 平成2年・1990年 P90
吉野曻雄・「吉野鮨本店」三代目
(明治39年・1906年〜平成3年・1991年) -
篠田統 の『すしの本 増補版』から5年後の、昭和50年・1975年 に、全国すし商環境衛生同業組合連合会の監修で出版された『すし技術教科書 江戸前ずし編』では、握りずし一つを「一かん・一カン」、のり巻き一つを「一かん」とする数え方が多数見られます。 - この『すし技術教科書』では、「吉野鮨本店」三代目
吉野曻雄 が「第一篇 すしの歴史 」の「一人前」を説明したくだりで、前出の「近代食堂」と同じく、戦前のすし職人が「にぎりずし五個」を「五カン」と呼んだとされる次のような趣旨の表現が見られます。『現在、にぎり寿司一人前は十個の基本数。戦前は、にぎりずし五個と、のり巻き三つ切りを二切れが基本数で、これをすし屋は「五カンのチャンチキ」といった。チャンチキは太鼓の撥 から囃子 の連想による』『すし技術教科書 江戸前ずし編』 第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修『すし技術教科書 江戸前ずし編』
すしと江戸前ずしの歴史 - にぎりずしの誕生
吉野曻雄
戦後の委託加工(持参米一合と、にぎりずし十個〈のり巻を含む〉とを交換し、すし屋はなにがしかの加工賃を受ける)という変則的販売法の後遺症は、現在なお、にぎりずし一人前に十個の基本数(戦前は、にぎりずし五個と、のり巻三つ切りを二切れが基本数で、これをすし屋は「五カンのテャンチキ」といった。チャンチキは太鼓の撥 から囃子 の連想による)がつきまとっていることと、全国的ににぎりずしの大きさが小ぶりになったことに見られる(昔は一口半の大きさが標準型)。
『すし技術教科書 江戸前ずし編』 第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修
吉野曻雄・「吉野鮨本店」三代目
(明治39年・1906年〜平成3年・1991年) - ただし、同じ『すし技術教科書』でも、「すし栄」三代目倉田華太郎(明治29年・1896年〜昭和51年・1976年)は記事の中で「一個」と使っています。
『すし技術教科書 江戸前ずし編』
明治・大正時代の江戸前ずし店
倉田華太郎
大正初期で屋台のすしが一個一銭五厘から二銭、内店で五銭だったでしょう。当時は今と違って二個づけはありません。ただし、一個の大きさがうんと大きく、一口では食べきれませんでした。
だいたい、一人で五個も食べれば、いい加減お腹が大きくなってしまったでしょう。一個でだいたい今日のすしの三個分はあったでしょう。
『すし技術教科書 江戸前ずし編』 第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修
倉田華太郎・「すし栄」三代目
(明治29年・1896年〜昭和51年・1976年) - この『すし技術教科書・第二篇 すし技術』では、様々な「種」の握り方を解説したくだりで、「サヨリ」「シャコ」「コハダ」などで次のような表現が見られます。
『コハダ・二つ切りの場合』
「一般に片身づけとよばれている握りの切りつけ方で、一尾のコハダを二つ切りにして片身で一カンのすしを握る」
『サヨリ・片身の二つ切り』
「皮をひいて二つ身にする。片身を真中から二つに切り、すしダネとする。片身で二カンのすしになる」
『シャコ・大きいものの場合』
「まるづけでは大きすぎるようなシャコの場合は、すし飯も多めにして、少し大きめのすしに握る。太目のノリ帯をかけて、二つ切りにし、尾も切りそろえ、二かんとする」『すし技術教科書 江戸前ずし編』 第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修 - また、同じく『第二篇 すし技術』の、のり巻の盛り方のくだりでは、次の表現が見られます。
『チャンチキは、拍子木のことで、のり巻きをX印のように交叉させて積む方法である。イカダは、横にねかせたのり巻二かんを枕にして、同じく、二かんをたてかけるようにしたもの』『すし技術教科書 江戸前ずし編』 第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修
(編集注:ここでの「のり巻き」の「かん」は、巻物の「巻」とも取れるが、実際には長い一本の巻物を小さく切ったものを盛りつけているので、にぎりずしと同じ考え方の「かん」であると思われる) - また、同じく『第二篇 すし技術』の盛込みのくだりでは、次の表現が見られます。
『現在の一人前のすしの数量は、にぎりずし七かん、のり巻き半本、すしダネの種類は、上か並かで差をつける』『すし技術教科書 江戸前ずし編』 第一版:昭和50年・1975年
改訂版:平成元年・1988年
全国すし商環境衛生同業組合連合会監修 - 以上見てきたように、いつ頃から「カン」と数えるようになったのかについては、
- ① 江戸時代から明治、昭和の中頃までの文献には「カン」の数え方は見当たらず、
- ② 昭和45年・1970年と、昭和46年・1971年の文献に、『すし職人が戦前から「一カン」と呼んでいた』ことが記され、
- ③ 昭和50年・1975年の、すし技術者向けの文献では様々な説明の中に「一カン」「一かん」が登場します。
- しかし、後述しますが、その頃の辞典類には一切見られず、辞典での登場は2001年以降、 21世紀になってからのことです。
- 続いて、著名作家は作品の中で「すし」をどのように数えているのかや、辞典にはどのように書かれているのかなどを見てみます。
・文献などによる情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡ください。
*2022年6月に、W様より次のような情報が寄せられました。
チャンチキというのは、当たり鉦のことで太鼓ではありません(チャンチキおけさも太鼓のイメージではありませんね)。したがってバチも太鼓をたたくものではなく、鹿角バチという細長いもので海苔巻きのイメージに合いません。また、「貫の字を当てるべきだろうか」とあるように、唐突に五貫が出てくるのも不自然です。
そこで私の解釈です。これは、落語『孝行糖』に由来するものであると(落語の詳細はWikipediaをご覧ください )。この落語は、ちょっと足りない与太郎はいつまでたっても半人前。しかし親孝行なところが認められ、お殿様から五貫文のご褒美をいただく。その資金で、周りの協力もあり、孝行糖と名付けた飴を売り歩く。当たり鉦を叩きながら「チャンチキチ、スケテンテン」と言いながら売り歩く。つまり五貫文のご褒美で、自立、一人前になったということで、五貫のチャンチキが一人前を意味するようになった。まあ一種のダジャレですが、江戸前寿司屋にはこの手のダジャレが多い。わさびを涙、胡瓜のまいたのを河童、等々。また、この落語が上方から東京に入ってきた時期(大正から昭和初期)も一致する。
いかがでしょうか?
そこで私の解釈です。これは、落語『孝行糖』に由来するものであると(落語の詳細はWikipediaをご覧ください )。この落語は、ちょっと足りない与太郎はいつまでたっても半人前。しかし親孝行なところが認められ、お殿様から五貫文のご褒美をいただく。その資金で、周りの協力もあり、孝行糖と名付けた飴を売り歩く。当たり鉦を叩きながら「チャンチキチ、スケテンテン」と言いながら売り歩く。つまり五貫文のご褒美で、自立、一人前になったということで、五貫のチャンチキが一人前を意味するようになった。まあ一種のダジャレですが、江戸前寿司屋にはこの手のダジャレが多い。わさびを涙、胡瓜のまいたのを河童、等々。また、この落語が上方から東京に入ってきた時期(大正から昭和初期)も一致する。
いかがでしょうか?
(2022年6月1日)
*W様、貴重な情報をありがとうございました。メールの返信を差し上げましたが戻って来てしまいます。いただいた情報を掲載しお礼といたします。ありがとうございました。